僕たちは祝い続けてきた。
刹那的な今を生きる仮面の戦士たちの姿を追い求め、一つの枠に収まらない新たな戦士が生まれる度に喜怒哀楽の感情をぶつけ、また一年間見守るというサイクルを繰り返してきた。
そもそも平成ライダーとは最初から呼ばれたものではない。形を変え続けた結果、毎年仮面ライダーが放送されることが当たり前になり、様々なメディアミックスやテレビ以外の多様な展開は「平成ライダー」という一ジャンルを築き上げた。
NEW HEROの仮面ライダークウガからバトンが渡り、遂には20番目の走者である仮面ライダージオウに渡った。そして、そのジオウも長いレースのゴールテープを切った。改めてジオウを通じて、平成仮面ライダーが与えたものを何だったのかの感情をぶつけたい。
ピリオドなんか打たせない。走り続けた思い出も王道の熱さも、頭を抱えたくなるような公式の暴走の清濁を含め「平成ライダー」という括りにしてしまうカオスさを感じる作品だった。
先ほど、多様な展開が「平成ライダー」という一ジャンルを築き上げたとあるが、それは良く言えばの話。築き上げてしまったのだ。
「平成ライダー」という全体で見ると今にも崩れそうなバランスでちぐはぐなアンバランス感。振り返ってみれば確かにそうだ。
超古代文明の戦士や神と戦い、願いのために争い、醜い身体に真っ白な心。カードの戦士や妖を退治する鬼、地球外生命体と戦う高速の戦士、時をかける電車に乗る者や人と吸血鬼のハーフ。
バディ探偵や3枚のメダルで歌を奏でる旅人、宇宙に行く高校生や魔法使いに、鎧を纏う果物侍。ハイテクビークルを扱う車の戦士や死してもなお命を燃やし、戦うドクターや記憶がない天才物理学者。
さらには彼らをまとめるかのような世界を旅して回る写真家に、今作のジオウだ。
もう属性の大渋滞だ。
そんな平成を締めくくる記念作品であるジオウには否が応でも期待がのしかかる。ジオウの前身とも言えるディケイドはどこか各平成ライダーの紹介も含まれていた作品のような感想を抱いていました。現にクウガを見ていた幼少期から仮面ライダーを離れ大分経った後に、ディケイドを通じて平成ライダーを追いかけるきっかけを作ってくれた。
でも東映はディケイドや戦隊版ディケイドでもあるゴーカイジャーのような作りはしたくなかったように思える。あの変化球を投げ続けた東映が今更二番煎じをやりたくなかったように感じていて…。実際にレジェンド出演する俳優がいても変身することは多くなかった。オーズの映司の国会議員や555の巧や草加が変身しないでも当人たちのエッセンスがあり、変身はしていなくても心は変身しているような演出がとても好きだった。(ただアギト辺りから露骨なレジェンドの変身や演出のテコ入れ感が凄かったが)
本編では高校生である常盤ソウゴが最高最善の魔王という夢に向かって物語の歯車が動いていく。また未来から最低最悪のオーマジオウたる常盤ソウゴを倒そうとしてゲイツとツクヨミらがやってくる。そんな常盤ソウゴを中心にタイムジャッカーやディケイドやゲイツらが大きな渦を巻き起こした物語。全平成ライダーから力を継承し、最終話『アポカリプス』では自らオーマジオウになり、新たな時を創造し、未来のいつかの最善最高の魔王になるソウゴ自身のために世界を創造した。
これは一種のもう開き直りを見せた謝罪会見のようなもので。文面だけ見たのなら綺麗にまとまったかのように思える。ただ実際には回収しきれていない伏線や理解に苦しむ解釈がたくさんある。伏線が回収されることや理路整然としたストーリーが全てじゃないのは重々承知だ。ただ開き直ってそれを公式が自らやったということに意味があるのではないか。
『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』でも敵のクォーツァーは「平成を綺麗に整備して、作り直す」という平成ライダーの存在そのものをメタ的に扱っていた。この映画では凸凹である平成仮面ライダーだからこそいい。「今」という瞬間瞬間を生きてみんな違ってみんないいというオンリーワンをぶつけてきた。「今を懸命に生きるために走り抜けてきたライブ感こそが平成ライダーだろう?」という開き直りだ。最終話と映画を通じて許せない自分とその一方で許せる自分がいた。
もはや一種の謝罪会見のようで。
— ボクシカ (@shika5boku) August 25, 2019
当初の東映くん
「平成ライダー20周年記念で、作り手だった俺たちならまとめられるぜ!」
今の東映君
「常に平成仮面ライダーが走り続けるならまとめれません。走り続ける行為そのものが平成ライダーです。その知見だけは発見できました。これらかもよろしく。」
走り続けていなかったらそもそも僕はクウガを見て、ここまでライダーというヒーローに触れることがなかった世界もあるかもしれない。僕がここまで追いかけていたことの一つに気づかぬうちの驚きの連続を体感していたからかもしれない。
そして許せる自分がいるのは恐らく公式がどういう形であれ平成ライダーはまとめきれないほどに無限で虹のような色を持っているという人によっての解釈を示したところが大きい。ここに公式がしろしめした意味がある。
カブトの赤い靴計画をはじめとした無くなってしまった伏線や現代版ショッカーたる財団Xの数え切れない設定を無と化し、カブトに変身した加賀美や剣崎と始の運命そのものがなくなってしまった演出や突然の夏映画での集合元号ギャグをはじめとした人によっては最低最悪とも呼べる負の面。
シンプルなカッコよさや狂気じみた整合性のあるクウガの展開や熱い物語、放送当初はライダーと呼ぶに思えなかった存在が終盤になるにつれ、お前だから仮面ライダーなんだという熱い展開の最高最善ともいえる正の面。2つの面を含めて平成仮面ライダーなんだ。
これはだらだらと続くのではなく、区切りだ。
一度締めることでこれからも走り続けるであろう令和以降のライダーはもちろん、制作陣や僕ら視聴者が共に作りあげてきた平成ライダーに関わった全員への一つの答えなんだ。平成ライダーはまとめきれないという破壊ともいえる答えでも。ある意味答えは人それぞれの胸の内に幾多の答えがあるだろう。でもそれでいいのかもしれない。
もちろん風呂敷をたためなかったという点では許せない自分がのたうち回っている。しかしこれまで数多くの刹那を生きた平成ライダーを通じて、それもまた解釈の一つだよなという考えもある。ジオウは「今」という未来に繋がる現在をこれからも見続ける。
ジオウが平成に何を見たか≒僕らはその平成に何を見たのかということでもある。
最終話でソウゴがオーマジオウに向けて言った「創造させてもらう。歴史を作り直す。時計の針はさ、未来にしか進まない。ぐるっと一周して、元に戻ったように見えても前に進んでいるんだ。」平成ライダーはここで終わった。しかし、今後新たな時代になろうとも語られたその瞬間、今こうして平成ライダーについて何かしらの感情を想起させた時点で平成ライダーは生きていると思う。まさに未来に進んでいるではないか。そして新たな時代を駆け抜けてきた平成仮面ライダーのバトンは令和時代のランナーのゼロワンに渡された。