途中から映画『シン・仮面ライダー』本編及び関連作品のネタバレを含みます。(その際には分かるように注意文を記載しています)
前提として僕は仮面ライダーシリーズを昭和から現在の令和までテレビシリーズ、石ノ森章太郎氏の原作漫画『仮面ライダー』をちょこちょこつまんでいます。本作に対するスタンスは仮面ライダー映画というよりも、その前にある"エンタメとしての映画"という面を重視しています。
悲しみを隠すための仮面を被り、バイクにまたがる戦士。
仮面ライダーと呼称されている50年以上の歴史の中では、様々な顔を見せてきた。
大自然がつかわした正義の戦士や愛と平和を守ったり、そもそもとしてなぜ戦うかを迷いながらも。元々は漫画であった一作品が、テレビ、小説、映画、舞台と表現を昭和や平成から今の令和に続く特撮TVシリーズと表現を変えてきた。
そのため、「仮面ライダー」という定義は十人十色だと考えている。
そんな"変身"をする作品を改めて、東映映画作品として世にお披露目したのが今作の『シン・仮面ライダー』だ。
関係者を除けば、一般人が見れる2023年3月17日(金)最速上映を前に劇場やネットもみんながソワソワしていたような気がしました。加えて、以下のキャッチコピー内容に心揺さぶられた人も多いのではないだろうか。
変わらないモノ。
わ
る
モ
ノ
。
そして、変えたくないモノ。
そして、ついに我々も仮面を被り、スクリーンに目を開いた。
以降より本作品の内容や関連するネタバレを含みます。
ご注意いただければと思います。
シンを冠する作品の十字架
驚きや物語としての面白さの期待が大きくなりすぎたハードルをくぐってしまったというのが本作品の第一印象でした。
前半にも述べたように仮面ライダー映画でなく、エンタメ映画としての面を重視しているが故に、一作品の大きな楽しみや心を揺れ動かすものが少なかったように感じました。
『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』ではそれらシリーズ作品としての原作回帰や今の技術での新表現はもちろんだが、それよりも大きなエンタメ映画の驚嘆があったと僕は考えています。本作品はそこが非常に小さいような気がします。
※庵野秀明監督の代表するアニメ作品『エヴァンゲリオン』を見たことありません。
申し訳ないです……
じゃあ、仮面ライダー映画として見たときにはどうなのかと問われれば、諸手を挙げることもできないというのが正直な思いだ。
良いところもある。しかし悪い面が目立ってしまいどこか喉に魚の骨が刺さった気持ちになっている。
例えば緑川ルリ子が亡くなった後、本郷猛が仮面を被り夕焼けを見ながら涙マークを再現するかのように泣くシーン。
シーンとして良かったが、全体の変な要素が積み重なってしまい、作品に没入できない二律背反な感情が僕の中で渦巻いてしまった。
何故そのように良い面と悪い面が混在しているのかを深掘りしていきたい。
良い面
・掴みが良すぎる
トラックとのカーチェイスからクモオーグを倒して、自身がバッタ人間という改造された異質なものに変化してしまったプロローグは、映画開始の心を鷲掴みにしてくるのが素晴らしい。
本郷猛と緑川博士や緑川ルリ子との関係性を見せつつも、なぜ変身ベルトが必要なのかや本作品の変身に使用する強化細胞のプラーナを吸収及び排出することで変身有無をスイッチするシステムであることを理論づけるシーン。加えて、本郷猛が過去に暗い過去があることを暗喩するフックだったりと、掴みとして非常によかった。
そして、何より本作品における崖の上に立つ仮面ライダーが格好いい。
バイクでの風を受けて、変形するサイクロン号のシークエンスも現代ではこう表現するのかと思わず納得してしまった。
本作初お披露目でのライダーキックは、バッタの翅をプラーナの力にて再現し、空中での姿勢制御によりクモオーグにぶつけるシーンは唸ってしまった。
テレビシリーズでなぜ必ず無理な身体のバランスでも当たるかに対しての一つの回答を出したのもリメイク作品ならではの良さだろう。
その後の改造人間(今作ではオーグ)になってしまった苦しみや人を殺してしまった感触や変身後の鏡を見て本当に人ならざるモノになってしまった部分は漫画原作『仮面ライダー』でのシーンを強く反映している一つかと。
・本郷猛と緑川ルリ子の人間としての営みをみせるロードムービー感
本郷猛(演:池松壮亮)と緑川ルリ子(演:浜辺美波)が一緒にショッカーの戦いや時間を過ごす中で、友情や恋愛という言葉では表現しにくいが表情が豊かになっていく人間らしさの回帰が見ていて心地良かった。
バイクに乗るライダー(仮面ライダー)として活動し、緑川ルリ子の父親が娘に言ったであろうライダーはマフラーをするもの、ヒーローは赤と相場が決まっているようなメッセージにも、序盤での電算処理計算用オーグであった緑川ルリ子にも自身の希望かもしれないという気持ちが心のどこかにあったのかもしれない。
そんな二人がバイクで土地を移動し、コーヒーを飲んだり、寝食をする日常のシーンが戦闘の合間で挟まれるのが非常に好きだ。どんなに戦いをしても腹は減るし、衣食住は満たしたいという当たり前の人間の欲求が描かれていてるところにオーグであり、一人の人間という一面が輝いて見える。
この人間らしさがあるからこそ、クモオーグをはじめとした一度変移したものは人間に戻れないというより、本人自身が戻りたくない一種の虚しさが際立つ。
本作のラスボスにあたる緑川イチロー(演:森山未來)が計画するハビタット世界≒自身に不都合のない本心やむき出しな欲望で暮らせる世界だと考えた。
エゴとエゴのぶつかり合いから争いや醜い人を救う行為自体に快感や満足を感じる偽物の箱庭は、緑川ルリ子や本郷猛が経験してきた日常に比べるとそれはまさに”地獄”であり、そんな殻に閉じこもって世界を見ないのは視野搾取という作品からのメッセージを感じる。
ハチオーグ(演:西野七瀬)はある意味人を犠牲にすれば戻れるが……
また死神博士グループが作成したとされるカマキリカメレオンオーグの最新型(本郷らと同様のベルトを装着していた)故にもどれるだろうが、戻る選択肢は選ばないかと思われる。
演じる池松壮亮氏が、テレビ放映『仮面ライダー』を演じた当時芸名の藤岡弘氏に非常に似ているのも感慨深いです。特に仮面を脱いだ後や笑う表情が重なって見えるように現代の本郷猛はここにもいるんだ。
悪い面
・VFXやCGの粗さと戦闘シーンの画面酔い
アクション映画も本作は担っているかと思うが、戦闘シーンをより輝かせるVFX表現が悪い意味でついていけなかった。
最初はバッタオーグとしての畏怖さの表現に低音でのパンチやキックの素早くも重い一発による下級構成員の倒すシーンにこうきたかと楽しんでいた。
ただ、ハチオーグあたりから速いことを表現するのに車の光が放射線状に伸びるように仮面ライダーとハチオーグの戦闘も同様の現象が起きたあたりから、酔ってしまった。
加えて、仮面ライダー第2号となる前の改良型バッタオーグメントの一文字隼人と工場を背景とした戦闘もどこか現実と映像技術によっての"合成感"が悪目立ちしてしまったように感じている。
暗闇での戦闘シーンはVFXやCGでの粗さを隠す手法があるが、本作は人間サイズ。故に強さを出すのに多くの早回しやそれを補助する技術が映画の中でマスクされるべき部分が露出していたのだと考えています。
ある意味では作品世界に没入するために、僕らもオーグメントし、仮面を被れば違った景色が見えたのかもしれない。
そもそも他の特撮シリーズと比較しても、仮面ライダー映像作品はやけにCGやVFXが粗く見えがちなんだよな……
・設定説明のチグハグさ
序盤から最後に向けてプラーナやハビタット空間やオーグメント、ショッカーがどう設立したか。SHOKERの本体であるアイという機械学習思考はオフライン通信のため、外部のAPI手足の役割を担うロボット刑事KならぬK(声:松坂桃李)も含めて、説明は多かった。別にそこはいい。
ただ、個人的には説明する箇所とここは文脈や映像からでも読み取れるだろという"焦点がずれているチグハグさ"を感じた。
緑山イチローが実現したいハビタット空間やオーグ側の思考や心理は深く掘り下げるか、もしくは表現すべきだったと考えています。もちろん、現代の悪は単純に語れるものでないのも分かるが、それならそれで解釈の余地や敢えてもっと抽象的にすべきだったようにも。逆に説明したい部分は細かいぐらいに情報過多で…
※最初の変身ベルトの定義づけは最高です。
本郷猛の父親を亡くした出来事や緑川イチローの母親が死ぬシーンは劇中登場人物が音声付きで説明するのでなく、最初の改造手術シーンの映像のみの切り替えレベルでも読み取れるような気がしています。
加えて、『シン・仮面ライダー』以外にも原作リメイクが何度かされてきたこともあり、どうしても物語という軸一つ取っても整合性に難があるとアンバランスさが目立ってしまう。
中にはもう絶版だが、リメイク作品として高評価を得ている以下の作品と比較する方もいるかもしれない。(僕は現に思ってしまった)
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仮面ライダー 1971-1973
出版:エンターブレイン社、発売日:2009/2/16
著:石ノ森 章太郎、和智 正喜
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・本郷猛の死に意味はあったのか
ラストに一文字隼人のマスクと同期し、生命を感じながら二人で一人のダブルライダーとなったが、原作漫画『仮面ライダー』でも本郷猛がショッカーライダー軍団に倒された後は、身体がアンドロイドとして復活する現代解釈だと考えています。
ただ今作は、本郷猛と緑川ルリ子が共に時間を過ごすことで彼らの"人間としての信頼"にスポットが強く当たっています。緑川ルリ子が死の間際には、マスクにチョウオーグのデータや自身の自我?のプラーナもマスクに送信していました。しかし"用意周到"という言葉を使うには、あまりにも最終決戦の布石の置き方が雑なようにみえてしまう。捨て身戦法は、戦いの中でも人間味ある日常を送ってきた本郷に命がけの作戦はさせないはずだと僕は読み取りました。
本作の終わり方だと一文字隼人に全てが収斂して継承されている。
(緑川ルリ子の意志もあるかは微妙なところ)
ここからは僕の妄想というか、こういう方針でも良かったのではという考えです。
本郷がチョウオーグを倒すために、予告前から言われていた桜島一号のマスクにどうなるのかを、対チョウオーグ用決戦仮面ライダーとしての”緑川第一号”になれば良かったのではと考えました。
本郷が緑川ルリ子から託されたデータとお兄さんを止める意思を受け継いで、マスクにアップデートデータを仕込んでくれると思うんですよ、あの用意周到さなら。そうすれば、チョウオーグのパリファライズ?(聞き取れなかった)やプラーナ総量にも二人が築いてきた人間らしさと継承した力で、彼の偽の幸福であるハビタット世界の野望を打ち砕くのにもカタルシスさがあると言いますか。
何より旧一号が風を利用しない桜島一号で初見せした変身をオマージュできそうで。あの暗闇の中での、緑川一号としての変身ポーズが見たいです。
そして、ラストのバイクで道を走る一文字と並ぶ本郷のマスクには緑川ルリ子の意思が介在し、共にサイクロン号の風を感じていて欲しかった。
小ネタ
・チョウオーグこと仮面ライダー第0号
もう監督や制作サイドのマニアックさというか遊び心と読んでいいのかわからないが趣味嗜好が強く出ている。
スカルマンやイナズマン、V3やX、しまいには庵野秀明氏が好きな仮面ライダー555を匂わせるような青い蝶とアークオルフェノクみを感じるデザイン。
元々アークオルフェノク自体バッタや仮面ライダーモチーフなのもあるだろうが……
森山未來が緑川ルリ子に説得されるまでは、本当に人の枠から超えている神様のような雰囲気があって、個人的にはあのプラーナ常時接種椅子に座る所作が美しくて大好きです。
・ダブルライダー
元々は原作漫画『仮面ライダー』ではショッカーライダー軍団に一号が殺されるシーンがあるのですが、そこは救出するという世界線だったみたいですね。
しかも直近でリメイクの『仮面ライダー THE NEXT』見ていたので、思わずネクストじゃんと心の中で叫んでしまいました。
一文字隼人(演:柄本佑)が軽口をたたき、二人のライダーが構えてお決まりのBGMが流れたシーンには、リメイクの様式美がそこにあった。
ショッカーライダー軍団倒した後の、黙祷があったのも二人が人の心を持って戦ってるのが形として現れてるの◎
(前述にも記載したが、戦闘の粗さや酔いがあって全てを褒めることができないのが悔しい)
・アンチショッカー同盟
登場人物が違えどマルチユニバースというか、シン・ユニバース感でミスリードしといて、二人が滝とおやっさんの立花役されていたのは驚きでした。
また、滝(演:斉藤工)がSV1という弾丸を見ていたシーンは、あれ劇中の流れを読み取ると「Scorpion Virus」もしくは「Scorpion Venom」まさにサソリ女の毒だったぽい命名ですね。
とはいえ、シン・ユニバースもやれるよ~という可能性自体はどっちでも取れるような表現はあったかも。
最後に
本郷猛が父の死を乗り越えて、変わろうとする姿勢は、この作品からのメッセージとして「失敗を乗り越える=変身」という解釈をしています。
こうでもないああでもないと語るという意味では、当時の仮面ライダーを見ていたかつての子どもたちが会話の中での「今週の仮面ライダー見た?」というようなコンテンツを通じた現実との接点の空気感をリメイクしているのかもしれません。
本作品がどのように語られるかは多種多様だし、未来は分かりません。
ただ、僕は望みます。また、新たな仮面ライダーが見れることを。